Never Ending Summer

バンコク在住日本人ギタリストの日記

2019年10月

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相変わらずの日々だ。仕事と音楽とそれに追随する事象以外は何もない生活。余裕がなさ過ぎて社会人的な社交はほぼ皆無。遺憾とは思うがどないもこないもならん。

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この写真はここ15年くらいの俺だが老けてはいるけど基本はあまり変化が無い…それは中身が変わっていないってことだろうしいかがなものか。誰にでも伝わる音を創ろうという努力をしていると常に反動が来る。それは俺が音楽で金を稼ごうと意識する度に毎回起こるトラウマ的な拒否反応だ。自分ではどうしようもなくてこんな奴なんだと最近ようやく諦めた。生きているってのは常に変化し続けることで、それはもちろん生まれてから身体的にピークを迎えるまでのエネルギーに溢れた時だけではなくピークを越えて老いや病気やそれに抗うことも含めての生命維持の為の活動全般。日々の一呼吸一呼吸に至るまで人間の一生に全く同じ状態は決してない。何もかもが面倒な俺は嫌々だが動き生き続けて日々変わり続けてそれは死を迎える日まで続く。

瀧 康太 - guitar & noise collage

生きた音を出すってのはどういうことだろう?と約20年間即興演奏を続けて思い至ったのはそんなことだ。シンプルに言うと生きた音とは常に変化し続ける音だ。純粋に音を追いかけるとはそういうもんだと思っている。人生に同じ瞬間が無いように同じ音は二度と無い。同じ音を出そうと努力するのは《モノを売って報酬を得る》為の思考と同様で生きた音とは関係無い別の話。どちらも等しく難しく果てしないので不器用な人間は愚直にひとつを追うのが正道だろう。

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そんなふうに20年間無垢であろうというよくわからない目的の為にいろいろなものを断ち切って進んでも、未だ金の為に右往左往する羽目に陥っているが、これは単なる個人の精神的な弱さであって本質的には別の話。生活に追われてたまに混同して道を外れているだけだ。果てしなくロクデナシなだけなのだ。ただ、ある意味俺はテキトーなので長く生きている。真剣過ぎるミュージシャンやアーティストは大概若くして死んだり壊れたり。俺の周りにもそんな奴等が何人かいた。何が正しいのかは未だにぜんぜんわからないが、とりあえず俺はまだ生きていて音楽をやる時間がある。右往左往していられるのも生きているからこそだ。たまには生きていることに感謝しなくてはいけない。今月の5日は母の命日だったので余計にそんなことを感じる。

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相変わらず毎日ギターを弾いてはFBでライブメモを録って晒す。もう完全に日課になっている。意識して形を作ったものよりも真っ白な状態で弾いた抽象的で曖昧な音楽の方がストレートに伝わっている。わかっているがそれでも形にしようということをやめる気はない。なんにしろ馴染んでさえしまえばそのうち空気のように当たり前のものになる。帰り道を歩いているだけでも何かを感じるしその後でギターを持てば毎日違う音が出る。そうしているうちにある日『あ、音が変わってる』と気付く。どうやらただただ繰り返すことが大事なのだ。道端で虫が鳴いているようなもんだ。

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今日はトリオセッションのブッキングを組んだ。来月はゴルフさんとのエクスぺリメンタルギターデュオも再始動。とにかく進んでみるさ。